第一章
一
ことは二ヶ月前に遡る。
彼は朝早くから日が沈むまで、鳴り続けるインターホンにうんざりする生活をしていた。それを無視し続けた。するとその来客は強行手段に出た。
マンションの管理人の声がすると思った。ドアをたたく音がけたたましかった。その中に低い渋みのある声が混じっていた。
うるさい。そう思っているうちに玄関ドアが開いた。オートロックのそのドアを開けられるのは彼以外には管理人のみだ。
珍しく昼から起きているというのに。折角のひとりを邪魔しないで欲しいのに。彼はリビングの床で膝を抱いたまま、忌々しく玄関の方を睨む。
ずかずかと容赦なく男が侵入してきていた。管理人は関わるのは御免だとばかりに去って行く。
彼は男を観察した。雑なオールバックと無精髭。目つきがあまり良くない。グレーのスーツを着ているが、ネクタイは緩くしか結んでいない。
大雑把で物怖じしない性格。三十路の半ばの独身。そんな感じだろうか。
一方、男もまた彼を観察していた。うっとおしく長い、顔の上半分を覆い隠す前髪。目が確認できないのは本能的に不信感を与える。
細く痩せて色白な青年だ。ラフなティーシャツにスウェット姿、ソファがあるのに床に蹲るように座っている。酷く神経質そうな印象だ。
「鳴海秋湖だな」
ぱしり、と小気味いい音を立てて紙が開かれた。
「ハッキング容疑で逮捕状が出てる」
「・・・」
彼にも色々と言いたいことはあったが、咄嗟に声が発せられなかった。長く人と話をしていなかったからだ。
開いて見せられた警察手帳には東京府警公安部、大葉陣内、とあった。
「・・・大葉陣内?どこまでが苗字?」
その第一声がこれか、と彼は自分に呆れた。しかし、同時に少なからず驚いてもいた。
「・・・大葉が苗字で陣内が名前」
「へぇ、変わってますね。どっちも苗字みたい」
よく言われるのだろう。刑事は顔を顰めた。
ついでに、この恐ろしくマイペースに動じないガキは何なのか、と思っているはずだった。
彼は聞き取りづらいほど、ぼそぼそとした小さな声で喋った。加えて、口調には波がなく淡々としている。この会話を嫌がっている事は一目瞭然だった。
「ハッキング如きで公安が出て来るんですか」
「否定しないのか」
「少なくとも警察に嗅ぎつけられるヘマをした記憶はないですね」
「・・・あんたがインターホンに出てくれりゃあ、こっちだってこんな手は使わずに済んだんだ」
「それは申し訳ない。あなたがあの迷惑極まりないピンポンの犯人ですか」
「警察だっつってんのに全くもって動じない奴だな」
大葉は床にどかり、と腰を下ろす。
「鳴海秋湖、」
「それ」
「あ?」
「その名前、嫌いなんです。ナルアキって呼んで貰えます?」
「なんで初対面のあんたをニックネームで呼ばなきゃならん」
「初対面と言うならどうしてこの僕が初対面のあなたを家に上げなきゃならないんですか」
「・・・わかったわかった。それじゃあ、ナルアキさんよ。あんたには逮捕状が出てる。このままじゃ、逮捕されちまうわけだ」
「そうみたいですね」
ちらり、と前髪の隙間からナルアキの目が逮捕状を追う。
「そこで司法取引って奴だ」
「・・・司法取引?」
「あんた、一昨年大手ゲームメーカーを退職してるな」
「そうですね」
「理由は?」
「人間が嫌いだから」
「今は無職。そんな協調性の無い人間が再就職はほぼ不可能だ」
「特にする気もないですけど」
大葉は続いて、書類の束をローテーブルに置いた。
「あんたを拾いたい」
「拾う?公安が僕を?」
ナルアキは断りもなく書類の束を手に取った。
神様計画。赤い、極秘の判が押されている。それに怖じる事もなければ、遠慮も容赦もしない。
「あんたに、神様を作って貰いたい」
ナルアキの手が書類を捲った。
「統計的に、信仰心の低下と神社仏閣、教会の減少と共に犯罪は増加している」
「そうでしょうね」
「罪悪感がなくなるわけだ。法律が人間の心理に与えられるのは、しょせん罰則への恐怖だけだ」
ぱらり、と紙を捲る音が響く。
「日本の神は祟りの神です。日本の信仰心は祟りを恐れ、あの世と死を信じる所から来ていた。それが無くなると、つまり祟りもあの世もないと、死は恐怖ではありません。死体を穢れとすることはなく、恐ろしくもない。殺人も罪悪と感じない。ましてや、平均年齢が百近い時代です。死はファンタジーになってしまった。かつての日本人には深い宗教観がありました。日常に浸透しすぎた宗教観は一見、我々を無神論者に見せていた。しかし、誰もが祟りを恐れていた。それが今はどうです。神社を潰すことに躊躇いはない。家を建てるのにお祓いはしない。これでは治安も悪くなるわけです」
大葉は目を剥いた。そして、確信した。
この男しかいない、と。
淡々として長い口上を述べたナルアキは、その言葉の端にすら感情を滲ませなかった。しかし、内容自体は非常に激情的に思える。
「あんた、随分な変わり者だとは聞いてたが・・・」
「僕は今だって、神社を見れば手を合わせますよ。時代に飲まれて人でなくなるのは御免ですからね」
人が嫌いだと言いながら、人でありたいと言う。否、だからこそ嫌うのだろうか。神を持たない今の日本人が、彼には人に見えないのかもしれない。
ナルアキはさらに紙を捲る。
「それで?神様とやらのレシピは?」
「受けてくれるのか?」
「さぁ?」
「あんたな、」
「僕は気まぐれなんです」
「・・・構想はまだない。そういう技術的な話は専門外だ。ただ、何とかしてその、神を信じさせたいわけだ。オカルト的なネタでも良い」
「そこでプログラマーのもとへ話を持って来るあなたも相当な変わり者ですね。しかし、発想は素晴らしい」
「あ?」
ナルアキの手から書類の束が投げ出される。ばさり、と音がした。
賭けに勝った。そう思ったのは、果たしてどちらだったのか。
「シソさん、この出会いは奇跡かもしれない」
「シソ?・・・大葉だ!」
「警察、か・・・。ふふ、その発想は無かったなぁ」
ナルアキは立ち上がる。ふらふらとリビングから出て行ったかと思えば、黒い小さな塊を持って戻ってきた。
「僕は技術者です。僕が作りたいと思う物を使いたいと思う人がいるなら、それに勝る喜びはない」
ナルアキは大葉の前に座り込んだ。両膝を立てて、所謂体育座りをするのが癖であるらしいこの青年は、引き籠りという言葉が酷く似合う。
ふたりの間の床に小さな物体が置かれる。
「何だ、これは」
「ブート」
ナルアキの声に反応して、物体から光が放たれる。ホログラムモニターの投影機だ。
ただし、普通のそれとは違っていた。直方体が投影機の上に浮かんでいる。何の変哲もない直方体。しかし、完全立体の3Dだった。
「まだデータが空ですから、これしか出ませんけどね。ちゃんとしたモデリングを入れれば、ホログラムの人形が出来ます」
「これ、あんたが作ったのか」
「どうして3Dのホログラムが実用化しないか、おわかりですか?」
「さぁな」
「これを、どこに使います?」
ナルアキは質問に質問を重ねた。大葉が気分を害したような目をすると、口元しか見えない顔でくすくすと笑った。
「まず、ゲーム業界は極度のリアリティを倦厭します。所謂、依存症を恐れるが故です。そもそも、まだ新ハードとしてソフトを率いて行ける程の技術には至っていません。それから、テレビやパソコンに使えないのは明白です。あれは2Dだからこそ、見る方も作る方も便利なんです。全ての映像を3D化しようとしたら、金も時間もキリがない。見るのも疲れるでしょう?」
「そうだな」
例えば、アクション映画を立体的に広がるフィールドで展開されても、カメラワークも何もないそれは楽しめないだろう。
「衣料品店のディスプレイに、という声もありました。ですが、コストパフォーマンスはマネキンの方が遥かに優秀ですし、ああいうのは実物を展示出来なければ意味がない」
映像を展示したのでは、通販と変わらない。
「自動車のナビに搭載しようというのも却下でした。金と時間がかかりすぎて、刻一刻と変化する道路情報の更新に追いつけなかったんです」
大葉は頭の中にイメージを広げながら、ナルアキの話を黙って聞いた。その金と時間、がどれ程の物かはわからないが、商売としてはバランスが悪かったのだろう。
「唯一、マシだったのは遊園地のアトラクションですかね。悪くない出来だったんですが、遊園地は随分昔から平面立体の映像を使っていましたから、あまり変わり映えがしませんでした。乗り物に乗っていると余計にそうです」
「平面立体って、あれか?3D映像って奴か?」
「えぇ。これの前でそう言うと何だかややこしいですが、多方向から撮影した映像によって立体的に飛び出して見える、というあれです」
ややこしい、というよりこの立体物の前ではいっそ滑稽だ。
「結局、コストで負けて普及しませんでした。箱物はどこも維持が大変ですからね。それから、セラピーロボットって言うんですか?あれも駄目でしたね」
「セラピーロボット?」
「介護施設なんかで使われる、癒し効果のあるペットに代わるロボットです。これは触れられない、というのがネックでした」
ナルアキは自分でも驚くほど饒舌だった。人と関わるのが久しぶりで、恐れよりも脳髄から溢れ出す思考を止められず、口が動いた。
大葉にはどうにもそういう、がさつながらも親しみやすい雰囲気がある。初対面でこんなにも言葉を交わせるなど、常ならば考えられない事だった。
「存在しても触れられないというのは、想像を絶するストレスになります。そんなものは娯楽として本末転倒ですし、無い方がマシなんです」
「だが技術的には十分現実なわけだ」
大葉が言いたい事はわかる。簡単にその正体が知れては怪奇にならない。怪奇は正体が知れないからこそ、その効力を発揮するのだ。
「大丈夫ですよ。この子は必要とされない」
ナルアキは機械をこの子、と言った。それは、技術への愛情だろうか。
「あなたは、僕を必要として来たのでしょう?僕を舐めないで下さい」
要はオカルトが用意されていればいいのだ。その実は江戸の昔ならば、水彩画であったり、布きれでも構わなかった。
例え、今それを再現するにしても明確さは必要ない。別に、ホログラムだと疑われても構わない。証拠さえ捕まれなければ、それまでは怪奇として機能する。
大葉は直方体に手を伸ばした。すり抜ける。ジジ、と一瞬画像が乱れ、それを感知した投影機が再び鮮明な形を取り戻すべく、立て直す。一般的なホログラムモニターと同じだった。
確かに、このリアルさで愛でるべき形をしたものが目の前にあって、触れられないのはストレスかもしれない。しかし、オカルトではある。
「ゲーム業界は随分昔から、リアルな動きを追及するために人間のモーションをデータ化してきました。それを使えばあたかもそこにいるような神様になります。AIを入れることで、動作の矛盾や不自然を払拭し、人間との交流も可能です」
シャットダウン、ナルアキがそう呼びかけると、直方体は姿を消す。
大葉は投影機を手に取った。直径は二センチほど、厚さ五ミリぐらいの丸いボタンのようだ。大体、碁石ほどの大きさだろうか。
「僕はずっとこれを使う場所が欲しかった。娯楽ばかり考えていましたが・・・。ふふ、そうか、警察か。その発想はなかったなぁ」
ナルアキのその笑い方が、大葉には何故か、どことなく、哀れなように見えた。
僕が作りたかったのは神様だったんだ、小さな呟きを大葉は逃さず、確かに聞いた。
「シソさん、友達いないでしょう」
「あぁ?!」
「こういうのやらされてる人って友達いない人なんですよね」
「そりゃ、あんたの実体験か?」
「確かに僕も友達いないですよ。だからこんな馬鹿げた話に乗ってあげるだけのネタを持ってたわけですし」
床の上にころり、と居座る機械は、いわばナルアキの孤独の結晶だった。
「あなた、馬鹿にされてるんですよ」
「やれるんだろ?」
「やれますよ。やれるんだから、やってやろうじゃないですか」
ナルアキがにやり、と笑った。それは彼が初めてまともに見せた感情の姿だった。
その時、神の為に神に牙向く計画は始まった。